日本列島“大架橋時代”のオリジン

~ 赤い橋に託した五市合併の夢 ~

特集 若松トピックス

洞海湾をまたぎ若松と戸畑を結ぶ「若戸大橋」は、昭和37年(1962)9月26日に開通した。橋長627m、中央支間367mのこの橋は、我が国橋梁建設の記録を塗り替え、「東洋一の吊橋」として高く評価された。延べ六十万人が工事に関わったとされるこの事業には、当時の最先端技術が投入され、完成までに三年余りの歳月を要した。

開通から六十余年が経ち、今では当たり前のような風景になった赤い橋は、令和4年(2022)2月に国の重要文化財に指定され、その建築的な価値が見直されている。AIの無かった時代、光の屈折を利用して橋のひずみを計測し、吊橋の長大化に伴う風荷重やケーブル製作に係る課題を解決するなど、若戸大橋に用いられた技術は、我が国の大規模橋梁建設に多大な影響を及ぼした。

若戸大橋着工までの紆余曲折

鉄道の延伸と共に石炭生産量が増加した明治末、日本初の小型蒸気船が洞海湾に就航した。その後、大正期に入って石炭積出が急増し、製鉄所をはじめとする重工業の生産力が拡大。洞海湾を往来する船舶数が激増したことで、海難事故が頻発するようになった。記録によれば、大正15年(1926)から昭和10年(1935)までの十年間で発生した事故件数は1450件に及んでいる。

なかでも、多数の犠牲者を出した昭和5年(1930)の「第一わかと丸」の転覆は大きな衝撃を与えた。事故が発生した当日は風波が荒く、恵比寿祭りと相まって、定員をはるかに超える客が乗船していた。渡船は若松側岸壁近くで転覆し、死亡者73人を含む180人を巻き込む大惨事になった。これをきっかけに、若松・戸畑間を安全につなぐ若戸海底トンネル計画が検討され始めた。

そうしたなか、日本最初のカーフェリー「第八わかと丸」と「第九わかと丸」が就航したことで、洞海湾の混雑がいっそう深刻になった。当時の洞海湾の状況を見ると、若戸渡船の乗船客は一日平均2万7千人で、各種車両の一日平均台数は約7百台に達している。

また、重工業が活況を呈するなかで洞海湾を出入りする船舶数は全国一に、貨物の取扱量も全国三位にまで激増し、国の特定重要港湾に指定された。出入船舶と若戸渡船が狭い湾内で交叉する様は、危険極まりない状況であり、昭和11年(1936)に海底トンネル計画が再び表面化した。

その二年後、若戸渡船を廃止して海底トンネルに代替する案が地元関係者や福岡県から示された。この計画は内務大臣の承認を受け、五年間の継続事業となった。しかし、日中戦争が拡大し、太平洋戦争の開戦が迫るなかで着工が見送られ、建設中止を余儀なくされてしまった。

太平洋戦争終結後、朝鮮半島で勃発した戦争によって洞海湾の荷動きが活況を呈するや、五市合併論と相まって若戸海底トンネル案が再び注目されるようになった。昭和27年(1952)には洞海湾の基礎地質調査が実施され、海底トンネルと同じように橋梁建設も可能であるとの見解が示された。

その結果、技術的な課題を含めた総合的な検討が行われ、橋梁建設の方向に大きく舵が切られた。こうした背景には、中央支間(センタースパン)の長い吊橋建設への挑戦、隣接する八幡製鉄所からの円滑な鋼材供給、更には五市合併のシンボルとしての見栄えなどが考慮されたものと考えられる。

こうして、国道199号(門司区~八幡西区)が指定され、昭和34年(1959)年4月、日本道路公団によって洞海湾をまたぐ区間に長大吊橋が建設されることになった。

<資料:毎日グラフ(臨時増刊号)、1961年5月>

米国の長大吊橋をモデルにした若戸大橋

昭和37年(1962)9月26日に竣工した若戸大橋は、総延長約2.1km、中央支間367m、橋長(吊橋部)627mである。海面から橋桁までの高さは大型貨物船の出入りに備えて満潮面上40mを確保している。通行車両の見通しは開通当時で一日平均3千台、20年後に6千台になると推定して車道幅は9m、吊橋部分の両側に幅3mずつ自転車等共用歩道が設けられ、双方の橋台には計4台のエレベーターが設置された。

総事業費51億円(当時)、約2万トンの国産鋼材が使用された「若戸大橋」の名称は、約3万4千通の応募の中から選ばれた。若戸審美委員会によって決められとされる橋の色は、威厳やエネルギー・情熱・使命を象徴する赤色で、錆止め塗料の色でもあり、周辺の海や空、山など背景の中でより美しく映える色が選ばれた。

また、当時の大規模な長大吊橋いえば、米国のブルックリン橋やゴールデン・ゲート・ブリッジ等が想起されるが、若戸大橋の場合、1957年に建設されたフィラデルフィア市にあるウォルト・ホイットマン橋 (Walt Whitman Bridge)をモデルにしている。この橋の総全長は3,652 mで、両岸の街が共に工業都市という点で若戸大橋と同じような立地である。

国の重要文化財に指定された若戸大橋

80年代に入ると若戸大橋の交通量が建設当初の想定を大きく上回り、昭和57年(1982)の年間通行車両数は1千2百万台を超え、一日平均約3万4千台に達した。若戸大橋の4車線化に関する福岡県幹線道路協議会の提案を受け、歩道廃止を伴う車道拡幅工事が行われた。175億円を投じた4車線化工事は平成2年(1990)3月に完了し、若戸大橋と北九州高速道路が直結された。

北九州市から北九州市道路公社に管理権が移管され、若戸トンネル(新若戸道路)と一元管理することを前提に通行料金が値下げされた。平成24年(2012)9月には若戸トンネルが開通して供用を開始。大規模補修工事を終えた若戸大橋では、盛大な開通50周年記念式典が行われ、翌年4月に、若松側の橋台内に学校・研修団体向けの展示室「アビュレッド・ブリジアム」が開設された。

そして、平成30年(2018)12月1日、若松区民の悲願であった若戸大橋と若戸トンネルが無料化された。平成24年から平成30年までの通行車両数の年度別推移を見ると、年間1千6百万台(一日平均4万5千台)を超え、名実共に若松地域と小倉都心を直結する大動脈になったことが分かる。

その後、国の文化審議会は、綿密な調査研究に基づく斬新な技術力に加え、我が国の長大吊橋建設に及ぼした影響やその歴史的な意義を高く評価し、重要文化財にすることを文部科学大臣に答申。令和4年(2022)2月9日、若戸大橋は国の重要文化財(建造物)に指定された。

今も変わらぬ若戸大橋に託す思い

開通から六十余年、地域の発展を支えてきた大動脈であり、若松のシンボルである若戸大橋に託す市民の思いは今も昔も変わらないようだ。

昭和36年(1961)5月に行われた北九州五市の市長座談会では、合併によって誕生する「百万都市・北九州市」の観光資源として、若戸大橋に大きな期待を寄せていることが分かる。「モダンな快速艇や水中翼船で若戸大橋を下から眺め、洞海湾や関門を走り、陸の観光と併せた一日行程プランなど、五市間の観光を一つの線で結ぶ」と言った計画や洋上からの産業観光などが提案されている。

こうした先人たちの知恵を引き継ぎ、観光地としての魅力を高めるためには、石炭産業の繁栄と衰退や「死の海」と化した洞海湾の再生事業など、若戸大橋の下で繰り広げられた現代史を観光資源化する取り組み、周辺地域で開催される祭り・イベントを観光資源としてブラッシュアップする試みが必要であろう。

そして、港湾観光の成功事例を広く国内外から収集し、先進的な取り組みを展開するための仕組みづくりが求められる。国の重要文化財である若戸大橋の知名度を活かし、観光資源の乏しい若松南海岸に日本の長大吊橋に関するミュージアムを建設・誘致するなど、地域の観光資源を補完する新たな投資が北九州市全体の観光振興にとっても重要である。

※ 若戸大橋のこれまでのあゆみ https://www.city.kitakyushu.lg.jp/contents/05500121.html

※ 国重要文化財指定記念 若戸大橋バーチャルツアー 主塔編 https://www.youtube.com/watch?v=Fb3xp2HBKys

参考資料
・北九州市史(近代・現代、産業経済1)、北九州市総務市民局総務部文書館、平成3年12月1日
・若松市史(第二集)、若松市、昭和34年4月30日
・戸畑市史(第二集)、戸畑市、昭和36年3月1日
・若松庶民列伝(若松トンネル・林国雄)、裏山書房、昭和52年12月26日
・毎日グラフ(臨時増刊号)、毎日新聞社、昭和36年8月5日
・北九州市統計年鑑(昭和40・57年版、平成23・24年度版、令和4年度版)、北九州市企画調整局企画課