引き継がれた“地域おこし・人づくり”のDNA(1)

聖書を抱き市政に臨んだ吉田敬太郎
~洞海湾に架けた魂の橋〜

特集 若松ゆかりの著名人

吉田敬太郎

若松の現代史を語るうえで吉田敬太郎と火野葦平の功績は大きな転換点でした。敬太郎の父・磯吉は任侠政治の重鎮として「西日本のドン」と呼ばれた人物であり、一方、葦平の父は若松の港湾労働者を束ね、小説「花と龍」のモデルになった玉井金五郎。彼らは荒ぶる父たちの背中を見て育ち、そのDNAには、弱者を助け、筋を通す「川筋者(かわすじもん)」の血が流れていました。しかし、二人には郷土の土俗的なエネルギーを教育や行政、文学という知性の力で浄化しようとする強い思いがありました。

「親分の跡取り」としての自覚と葛藤

1899年5月に吉田磯吉の実弟・次平の長男として生まれた敬太郎は、幼くして磯吉の養子になり、家系の存続を担う「正嫡」として育てられました。

胆力と男気で政界の重鎮にまでのし上がった磯吉にとって、吉田組を近代的な企業・政治結社に成長させるためには、優秀な後継者を育てることが必要不可欠であり、自分の跡継ぎには学問と教養を身に付けさせたいとの強い思いがありました。

敬太郎は小倉中学(現・小倉高校)を卒業後、長崎高等商業を経て、当時、日本最高峰の商業・経済教育機関として実業界に多くの人材を輩出した東京商科大学(現・一橋大学)に進学。その背景には石炭産業で潤う若松を単なる任侠による支配から、近代的な経済・経営の力で治めようとする父・磯吉の狙いがあったようです。

しかし、そうした父親の思いとは裏腹に、多感な学生生活を送る敬太郎は当時、西欧的な教養としてインテリ層の間で広まっていたキリスト教に関心を持ち始めます。近代的な倫理観や聖書に触れた彼は、暴力や利権による支配を否定し、一人ひとりの良心を重んじる教義に共感を覚えるようになりました。

東京商科大学(現・一橋大学)正門

政界への進出と牧師就任

大学を卒業した敬太郎は三菱鉱業に入社し、その後、大倉高商講師を経て、1935年に福岡県議会議員に当選して政界進出。1942年に衆議院議員に初当選しました。

その後、敗戦の足音が近づくなか東條英機内閣の軍部暴走を鋭く批判したことで、1945年3月、臨時軍法会議において実刑判決を受け、巣鴨拘置所に収監。同年4月に衆議院議員を失職しました。

しかし、拘置所での独房生活は敬太郎にとって信仰の転機点になりました。彼は差し入れられた聖書を貪り読むなかで、学生時代に知識として持っていたキリスト教が、「自身の命の使い道を決定づける唯一の指針」であることを悟りました。

終戦によって釈放された敬太郎は、郷里に戻って洗礼を受け、1949年、若松バブテスト協会の牧師に就任。戦後の若松市長として、「神の前にひざまずく」経験をもとに任侠的なリーダーシップとは異なる新しい市長像をつくりあげました。

東洋一の架け橋「若戸大橋」の建設に挑む

1951年4月に若松市長となった吉田敬太郎は、三期12年にわたって様々な市政課題に取り組みました。なかでも、若松と戸畑をつなぐ巨大吊り橋の建設は、五市合併を睨んだ国家的なプロジェクトでした。

若松・戸畑間を直結する道路の重要性が語られ始めたのは、1930年4月に起こった渡船転覆事故の頃からです。70人余りの溺死者が出た大惨事を受け、1936年には両市の間を海底トンネルでつなぐ案が検討されました。しかし、太平洋戦争に突入したことで実現の見通しが立たなくなりました。

戦後の経済復興とともに若松・戸畑間を直結する道路建設が再び取り上げられ、1952年初めには両市による促進運動が始まりました。基礎地質調査の後、海底トンネルと橋梁に関する比較検討が行われた結果、総合的な見地から橋梁の優位性が認められ、架橋建設が進められることになりました。

その後、架橋完成までの10年間、吉田敬太郎にとって悪戦苦闘の日々が続きました。なかでも、架橋工事に要する51億円の国家予算をいかに獲得するかが最大の難事でしたが、戸畑市長と共に何度も上京しながら陳情を続け、ついに全予算の獲得に成功。1959年3月31日に若戸架橋起工式が行われました。

1962年9月に竣工した若戸架橋は、「若戸大橋」と命名され、9月28日に盛大な開通式を挙行。洞海湾の入口に、かつて夢物語といわれた大規模な赤い近代架橋が出現しました。

若戸大橋建設工事の様子(1960年当時)

若戸大橋メインロープ架設後の渡り初め(戸畑市長と若松市市長)、1961年7月

郷土発展に尽力する思い

吉田敬太郎が市長に就任した当時、洞海湾を挟んだ対岸の戸畑や八幡は、官営八幡製鐵所を中心に急速な工業化と都市化が進み、その一方、若松は石炭の積出港としての役割が低下し、交通手段も若戸渡船のみという不便な状況でした。

彼は、若松が経済的・文化的に孤立していく状況を打破するため、あえて「陸の孤島」という表現を用い、巨大な架け橋の必要性を国や市民に説いて回り、完成後は、「東洋一の規模」であることを強調しました。

こうした彼の発想は、「日本一、東洋一の吊り橋が自分たちの町にある」という市民のプライドを醸成し、若戸大橋は、後の関門橋や本州四国連絡橋など、日本の長大橋建設技術の先駆けとなりました。

晩年、彼は、「侠客の息子が牧師になり、また市長を12年も勤めて、東洋一の若戸大橋をかけた。父はよく、お前のような人間は政治家などにならず、郷里に残って郷里のために尽くせと言っていたが、自分も郷土のために力を尽くしてきた。郷土はここに住む人たちの努力なしには発展しない」と、自らの歩いてきた道を振り返っています。

1963年2月、北九州の五市が合併して「北九州市」が誕生し、九州初の政令都市になりました。新市長が就任するまでの1か月余り、市長代理を務めた後、一切の公務から退いた吉田敬太郎は、若松パブテスト教会の牧師として後進の成長を見守りながら、1988年7月、89歳で逝去しました。

創立135周年を迎えた「若松バプテスト教会」

参考資料:
「汝 復讐するなかれ」、吉田啓太郎著、1971年、キリスト新聞社出版事業課
「刀と聖書(筑豊の風雲二代記)」、玉井政雄著、1978年、歴史図書社,

若戸大橋の60年