若松の歴史と魅力を次世代に語りつぐ

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旧古河鉱業若松ビル館長 若宮幸一さん

南海岸通りに建つ大正期ルネサンス様式の洋館、「旧古河鉱業若松ビル」館長の若宮幸一さんは、長年にわたり若松の歴史と魅力を語り続けてきた郷土史研究家でもあります。郷土の歴史について学び愛着を持ってもらいたいとの思いから始まった「若松学」講座。今回は地域創生学習に取り組む県立若松高校の生徒を対象にした勉強会が行われました。

 

 

- 若松の地勢を特徴付ける「江川」

かつて若松が島だったことは江川の特長を観るとよく分かります。東は洞海湾、西は遠賀川に繋がり、全区間が潮位の影響を受ける全国でも珍しい感潮河川です。江川に架かる汐分(しおわけ)橋や汐分大橋、その近くには汐分地蔵が祀られていますが、洞海湾から満ちてくる海水と遠賀川から流入する真水とが、ちょうどこの辺りでぶつかります。

 

 

江川は奈良時代の頃から波の荒い響灘を避ける交通水路として利用されました。16世末には豊臣秀吉が佐賀の名護屋城から朝鮮半島に派兵するため、大坂から軍勢を率いて関門海峡から洞海(くきのうみ)・江川を進み、芦屋、福岡、名護屋城へと向かったそうです。また、19世紀初頭、遠賀川から洞海湾まで全長12kmの堀川運河が開通してからも、「川ひらた」と呼ばれる石炭運搬舟が江川を往来していました。

 

- 若松の成り立ち

若松という地名の由来については、日本書紀や「恵比須神社縁起」に記された神功皇后の従者、武内宿弥(たけのうちのすくね)の祝詞(のりと)から引用されたとの説があり、若い松が多く繁った場所だったことから「若松」の名がついたとも言われています。

江戸時代の頃、若松地域の各村は遠賀郡に属していましたが、明治22年(1889)の市町村制の施行によって、石峯村(小石、修多羅、藤ノ木、二島)、洞北村(二島、畠田、頓田、小竹、安屋、竹並)、江川村(蜑住、有毛、乙丸、大鳥居、小敷、高須、浅川、払川、塩屋)、若松村(若松)の四カ村が生まれ、明治41年には洞北村と江川村が合併して島郷村になりました。

大正3年(1914)には若松市制が施行され、昭和6年(1931)に島郷村と合併したことで若松市の面積が倍増し、人口も6万7千人に増加。その後、昭和38年(1963)の五市合併によって現在の北九州市若松区になりました。

 

- 若松と石炭の関わり

石炭が発見されたのは15世紀の中頃で、薪に代わる燃料として使われていました。江戸時代になると、塩田の多かった瀬戸内海地域で海水を煮詰めるための燃料として石炭を使うようになりました。

その後、石炭を専売品にした福岡藩は、年貢米を大坂方面に搬送する施設が整っていた若松に焚石(たきいし)会所という藩の石炭監督役場を設置しました。これは産炭地で掘り出された石炭を遠賀川や江川・堀川を経由して若松に運び、販売までを一括管理することで福岡藩の大きな収入源になりました。

明治になると、県を経由して国に届け出れば自由に石炭の採掘・販売できるようになりました。値引き競争が激しくなるなか、若松では明治8年(1875)に販売を統制する問屋組合が結成され、県の方も「筑豊石炭鉱業組合」をつくって販売業者の集約化を進めました。

明治24年(1891)に若松・直方間に筑豊興業鉄道が開通し、洞海湾では大型船の入港を可能にする浚渫工事が行われ、明治34年(1901)には対岸の八幡村に官営八幡製鉄所が建設されました。

 

 

- 石炭積出港として栄えた若松の魅力

三井・三菱などの中央資本の参入や麻生・安川・貝島など大手鉱主の台頭によって、若松港は筑豊炭田の石炭が集積する国内最大級の石炭積出港に発展しました。洞海湾に面する南海岸通りには石炭関連会社が相次いで進出し、今に残る旧古河鉱業若松ビルや石炭会館、上野ビル、杤木ビルなどは石炭景気に沸いた若松の歴史を物語っています。

また、明治から昭和初期にかけて整備された「若松港築港関連遺産群」は、当時の浚渫・築港の技術レベルを伝え、昭和37年(1962)の完成当時、東洋最大規模を誇った「若戸大橋」は、五市合併のシンボルとして若松のランドマークになっています。

かつて石炭積出港として栄えた若松は、こうした歴史ある産業遺産を活かしながら、未来に向けたまちづくりに挑戦しています。