火野葦平(ひの あしへい)を読む

若松ゆかりの著名人

<河伯洞管理人:藤本久子さん>

 若松出身の火野葦平(本名:玉井勝則)は、昭和13年(1938)に第6回芥川賞を受賞しました。当時31歳の青年が受賞した作品は「糞尿譚」。糞尿くみ取りを生業とするお人好しで馬鹿正直な男が主人公の小説です。その独特な文体もさることながら、芥川賞の授与が、日中戦争のさなかに出征中の陣地で行われたことに注目が集まりました。その後、立て続けに発表した兵隊三部作(麦と兵隊、土と兵隊、花と兵隊)がベストセラーになり、一躍、国民作家として脚光を浴びました。しかし、戦後は戦争協力を問われ、公職追放されました。

 追放解除後は、若松の「河伯洞」を拠点に東京の「鈍魚庵」でも執筆活動を行い、代表作である「花と龍」をはじめ「革命前後」など数々の作品を発表しました。
 葦平がその生涯を終えた昭和35年(1960)までの20年間を過ごした若松の河伯洞は、葦平の河童好きが高じて河童の棲む家という意味で名付けられました。河伯洞は、火野葦平の印税を元手に父・玉井金五郎が建てたそうです。また、河伯洞には多くの友人が集い、文学仲間と新年宴会を催すなど文化人の交流の場にもなっていました。
 そうした河伯洞の管理を、玉井史太郎さん(葦平の三男)亡き後、引き継いだのが藤本久子さん。史太郎さんとは旧知の仲で、「葦平文学の魅力を若い人たちにも広めたい」との思いで取材に応じてくれました。

 若くして文才を発揮した葦平のルーツは誰なのか。学歴はなかったが無類の読書家で、話好きだった父・金五郎の影響が大きかったようです。
 「金五郎は、腕枕に子供たちを寝かせ、創作おとぎ話を聞かせていたようです。なかでも妖怪話が得意で、特に河童の話が上手でした。子供達は寝付くどころか興奮して次の話をせがんだようで、それが葦平の河童好きの原点だと思います」と語る藤本さん。
 近所の子供達に話を聞かせたり、幻灯を見せたり、紙芝居をしたり、とにかく子供好きだった金五郎の性格をそのまま葦平が受け継いだようにも思えます。すさんだ世の中を明るく照らそうと、高塔山の頂上で河童たちを招待する祭りを始めるなど、葦平の河童好きは尋常でなかったようです。

(藤本さんお薦めの5作品)

早稲田に入学したばかりの二十歳に満たない頃、下宿周辺の子供達に せがまれて話し聞かせた数編の創作童話。葦平の本名である玉井勝則で自費出版した最初の単行本である。

火野葦平31歳の時、この作品で第6回芥川賞を受賞した。お人好しで馬鹿正直な男が、我慢に我慢を重ねて最後にとうとう怒りを爆発させ糞尿くみ取り柄杓を振り回すところが痛快且つ印象的である。

戦場での悲哀と矛盾を一兵卒の目線で描いた作品。戦地から弟に送る手紙に「まだ生きている、また手紙が書ける」という言葉が印象的である。ヒューマニズム溢れる葦平の人柄が感じられる。

高塔山に祀られた河童封じ地蔵の伝説に基づく作品。この地域の池や川に住みつき村人たちを困らせる河童の大群を封じ込めるため、祈祷を始めた山伏・堂丸総学とこれを妨害する河童たち。お地蔵の背中に河童封じの太い釘が打ち込まれるや河童たちは姿を消した。山伏を惑わそうとする河童の所業が面白い。

明治中期から太平洋戦争直後の北九州を舞台に、沖仲仕・玉井金五郎と妻マンの生き方や人間模様を描いた火野葦平の代表作。1953年に映画化されて以降、幾度となく映画やTVドラマが制作された。